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身近な東京の風景や、出来事を撮り始めて5年程たちます。
ものごころついた頃から、次第に大人に近づいていく中で、周囲と均質になることを強力にしいられる社会であることを痛感しました。その中では、自分も均質になるばかりか、自分以外の社会も、掴みどころのない、どこを向いても自分の居場所や方向の見えない、果てしなく虚無的なものに見えて来ます。 ものごとの輪郭が見えてこない、なにものにもぶつからない・・・・そうした掴みどころの無さ、もどかしさを常に感じてきました。
一体、何処に立ち、何を見、どう考えてゆけばいいのか、そうした存在感の無さに茫然とする度に、写真を撮りたいと思います。自分が立っているはずのこの場所を、自分の眼で、自分の見方でみておかなければ自分の存在が周囲の溶游のなかに消えてしまう様に思われるからです。
何をどうみるか? まわりの社会を何を手掛かりに相対化すればいいのか?
特別の風景やアクシデントをさがすのではなく、僕と僕を包んでいる日常(現実)を具体的につかんでいかなければ、と思います。
最初に撮った写真は、都心のラッシュアワーの人混みでした。35mmのフィルムに数秒間の露光で定着された、輪郭の完全に消えた人混みと都会の無機的な人工物に、一つの自分の状況論が明確に写っている様に感じました。その人混みの流れの粒子が、フィルムの銀の粒子とほとんど等価になっている印画の中で、自分の姿をそのなかの一粒に見たとき、なぜか、とても自由な気持になれました。自分がひと混みのなかの、社会のなかの一粒というのではなく(ある意味でそうゆう意味でもありますが)、むしろ、<時間>ー万物の、在ること、居ること、生きていることの基底にあるもの、<自分>や<現在>が乗っかっている流れそのものを感じたのです。つまり、自分は時間のなかの、また、現実のなかの一粒子であること。そのとき、自分の存在の小ささは、むしろ確かさであり、また世界の大きさでさえあるように思われます。
いま僕は、自分らしさを出したい、他人と違う写真を撮らなければ、といった”個性”という言葉の透明で分厚い殻からようやく抜け出しました。
自分は点であるという存在感は、今もつねに僕をより自由にしてくれます。
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