メキシコからグアテマラへ
グアテマラに行ったのは、偶然というか単なる思いつきからだった。
それまでの3週間程のメキシコの旅の中で私は少し行き詰まっていた。私の旅していたチアパス州は旅行者なオープンな土地柄ではない。街中でも山奥の村でも、土地の人は旅行者に目を合わせてくれなかった。会話をしていても、挨拶だとか表面的なところから先の深いところには行かない。メキシコに限らないが内陸の人は海沿いの人に比べて開放的でない。メキシコというと開放的な人柄のイメージがあるかもしれないが、都市部以外の、特にインディオの人はむしろ逆である。
特にチアパスはメキシコでも貧しい地方で、90年に入ってから農民による武装蜂起が起き、独立運動に発展している土地である。
旅行していてもコミュニケーションが生まれないから人とも街とも出来事──物語──が起こらない。旅の取っかかりのようなものがないまま日数が流れ、ちょっとした焦燥感のようなものを感じて旅をしていた。
ある日村はずれの道端で二人の農夫が昼間から酒を飲んでいた。どぶろくである。通りかかると「お前も飲め」ということになり、こちらも嫌いではないからご相伴に預かることにした。曇ってはいたが、ぽかぽかと暖かい昼下がりだった。こんな日に遠くの山を眺めながら外で酒を飲むというのは気持ちの良いものである。飲みながらスペイン語の辞書を片手に、お互いの家族のこと、仕事のことなど小一時間程話をした。礼を言い、帰り際にふと思いついて「写真を撮っていいか?」と訊いてみた。どうしても撮りたいというほどのものではない。相手が嫌ならそれはそれでいい、という程度の気持ちであった。一人はすぐに「NO」と言った。もう一人は何か言ってきた。
「お前、オレの写真を一枚撮るなら…をよこせ」
だが、何をくれと言っているかが分からない。そこで「ディネーロ(金)か?」と訊いてみた。それならお断りだ。こっちは金を払って写真を撮る気はない。ところが男は指を1本立てて何やらゼスチャーをしながら「いや違う」と言い、「…をよこせ」と同じことを言う。相変わらず分からない。どうやら時計だとかカメラだとか僕の身につけているものではなさそうだ。何度か同じやり取りを繰り返しているうちにハッとした。その瞬間すべてを理解した。男が言っているのは「オレの写真を撮りたけりゃお前の指を一本よこせ」ということであった。酔っ払いめ、こっちが分かったと見えて嬉しそうに頷いてやがる。
一枚の肖像と引き換えに自分の肉体を差し出せというのか。頭から冷水を浴びせられる思いがした。カメラを持つ者としてどんな相手であれ、その者の前に立ち、シャッターを押そうとするならば、責任と資格を問われるのは当然である。それはどんな仕事上の言い訳も利かぬ個人対個人の差し迫った関係の問題である。今までにも金をよこせと言ってきた人はいた。激しい拒絶を示す人もいた。だがしかし、このような感性を突きつけられたのは初めてだった。
この酔っ払いのおやじの言葉には物質も精神も突き抜けて人間の肉体性というものが厳然と存在している。日本の曖昧な社会の中で暮らしていて、そういった身体感覚を退化させてしまった僕のようなものが、こういう人々と対抗できるものなど持ち合わせているはずがなかった。我が身の存在感の稀薄さを感ぜずにはいられなかった。
そんな出来事があって数日して、そうだ、グアテマラに行ってみようと思った。何日か前に中米から上がって来た旅行者に会った。そのとき彼らがグアテマラの田舎町の穏やかな印象を話してくれたのを思い出したからだ。そこでならもう少し違う旅を続けられるかもしれない。そう思った。いくつかの街の名前を教えてくれたが、さして関心のなかった僕はほとんど忘れてしまった。たったひとつ覚えていた街の名前はモモステナンゴ。なんとものんびりした響きの良い名前ではないか。そう思ったらいてもたってもいられず、翌朝さっそく国境に向かうバスに乗った。
到着した日、村は週に一度のメルカド(市場)が立つ日だった。原色の衣装を着たインディオの人々で溢れかえり、村の中心部は身動きも取れないほどだった。人々の歩き方はゆったりしていて、どこか東南アジアのそれを思わせた。そこには疲れのない明るさがあった。大きな掛け声を上げながら米やトウモロコシ、さまざまな豆類を秤に掛けて売る女。生きた七面鳥を手にぶら下げて売り歩く男。七面鳥はついさっきまで男の家の庭を走り回っていたに違いない。山のように腕時計の入った箱を持って人込みをかき分けている時計売りの少年。中には動いているのか怪しい時計もある。
市場にいると、山間に暮らす人々の生活の有り様が、垂直に照らす太陽の下にあからさまに見えてくる。市は週に一度の特別な日だが、それは日常の生活の典型を垣間見られる日でもあるのだ。なんだが居心地の良さそうな村だなと思った。
ある日、村から伸びる山道を歩いていて一人の少年と知り合った。
ほっそりとした綺麗な顔立ちの少年で、歳を訊くと14歳だった。初めのうちは僕のことを警戒し、幼い兄弟たちを家の中から出さないようにしていたが、軒下でお互いの話をしているうちにだんだん打ち解けてきた。名前はカルロスと言い、週に3日中学校に通い、ほかの日は畑に出るか、道路工事などの村の共同作業を手伝う。合間には家の雑貨屋の手伝いもしている。7人兄弟の長男で、父親を助けて一家の生計を支えているようだった。
当然、僕は彼の会った初めての日本人だった。カルロスの持っていた日本についての知識は3つあった。1つは中学校の教科書の中の「日本人の暮らし」というような1ページの写真入りの説明だった。だがその写真はおそらく昭和30年代のものと思われるもので、着物(粗末な和服)を着た7、8人の家族がちゃぶ台を囲んで食事をしている写真と、蒸気機関車に引かれた満員の列車の写真だった。世界の子供たちがこんなふうに日本のことを学校で習っているのかと思うと、なんだかおかしかった。でも案外日本にいる私たちもこうした古い情報や、時には偏見を持ってよその国のことを理解しているのかもしれないな、などと思った。2つめはサッカーのワールドカップ選手のことであった。意外にもグアテマラのサッカー雑誌にも幾人かの日本代表選手の記事が載っていたのだ。さすがに中南米はサッカーが盛んである。3つめは日産やソニーといった日本の工業製品や会社の名前であった。
これだけの情報を貧弱というべきか立派と言うべきか。僕の知るグアテマラの情報と比べたらカルロスのほうが上かもしれない。まして彼は14歳である。余談だが同じモモステナンゴ村の別の集落の町会長さんのようなおじさんは「ヤパン(日本)はチーナ(中国)のどのへんにあるのか?」と真顔で尋ねてきた。世界の多くの人は案外その程度にしか日本のことを知らないのかもしれない。
次の日、一緒に畑に行った。まずとうもろこし畑に案山子を3つ作って立てた。着古したジーパンとシャツに藁を詰め膨らませる。日本の案山子よりずっとリアルだ。そのあと痩せた木を切り倒し、幹や枝を切り落として薪を作る。これらの作業は常に持って歩いているナタを使う。この辺りの人はナタを持ち歩いている。どうやら山の生活の必需品のようだ。時々カルロスが口笛を吹く。その音は鳥の鳴き声そっくりでものすごく大きな音がする。すると驚いたことに遠く離れた山の斜面から鳥の声の口笛が帰ってくる。友達と口笛でやり取りしているのだ。
次の日は早朝にカルロスの家に集合した。いいところへ連れて行ってくれるというのでついていくことにした。谷間の川沿いの道を歩いていると、時々川で洗濯をしている女性に出会う。
熱帯植物をかき分けるようにして2時間程歩くと村の共同浴場(温泉)に着いた。V字型に深く切り立った谷底にある露天風呂だった。服は着たままだが男も女も一緒に入る。みんなくつろいで楽しそうに温泉に入っている。桃源郷という言葉が頭に浮かぶ。チアバスに比べて、気候や地形が変わると人間も違うものだなと思った。
その帰り、夕暮れの峠道を歩きながらカルロスが訊いてきた。
「日本はどんなところなの?」
さあ、どんな国なのだろうか。日本を説明するのにどんな言葉を使えばいいのか、思い浮かべようとしたが上手くいかなかった。具体的な輪郭の描けない、つかみどころのない感触だけが頭に浮かんだ。
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