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2004年01月22日

1月22日 最近の績読

 昨年末まで読んでいた中沢新一のカイエソバージュ1〜4(講談社選書メチエ)がとっても面白かったので、文中で度々出てきたレヴィストローズの「悲しき熱帯1」を読む。変な言い方だけど金子光晴のアジア紀行とサンテグチュペリの「人間の土地」を足して割ったような、アジアやラテンアメリカに対する眼差し。西洋には「自然」はない。西洋人は自然は人間が作ったり操作するものだと初めから思っている。というようなことがはじめに書いてあった。西洋文化圏のひととアジアや中南米の人々が「自然」を語るのは本当に難しい。その語られる言葉の量や、それぞれが動かす経済の非対称は果てしなく広がり続けて、テロや様々な現実や心のなかの大切なものを破壊するきっかけを作り続けている。続けて中沢新一「緑の資本論」(集英社)を読み始める。こっちも面白い。
 
 「この世からきれいに消えたい」藤井誠二、宮台真司著(朝日文庫)。宮台真司の本はたくさんの(本当に!)著作のなかでも、どちらかというと一連のブルセラ、援交など若者の心理や行動について書かれているものより憲法だとか社会システムだとかの本に興味がいって読んでいたが、この本は一気に読んでしまった。それにしても宮台さんの発言するテーマの広さと内容の深さは凄いとしかいいようがない。知らないことはないんじゃないかと思えるくらい。TBSラジオ「day キャッチ」のコメントも一番シャープ。
 この本は宮台氏、藤井氏の本の読者で北陸の町で自殺した青年の残したものを、残された人々と著者ふたりが追いかけながら、彼や彼をとりまく社会をみつめてゆくというもの。実感の希薄さを抱えて、意味がないと思える現実を生きることの過酷さを言葉にして現してくれる人が少ないなかで貴重な書といえるのではないか。特に普段何事も明晰に分析して類型化する宮台さんが、自分のたどった足跡を振り返りながら、自身のことについて語るくだりに惹きつけられた。当たり前だけど、どんな批評も自身を相対化する延長にしか 批評や評論はありえないのだ。文中に出てくる亡くなったs君は現実に対して様々な体験の”試み”をする。自死もそのなかに悲劇的な”試み”のひとつだった。考えると若いときもそれ以降も現実は”試み”の連続ではないか。日々の行動や体験には理由や意味などないことが実際には多い。後から見つかることはあっても。
 実感は窒息しそうなくらい希薄な現実の中で、老若に関わらず「居場所」は日々幾つも増えているにしても、どこにも依拠出来ない人は多い。今は昔と違ってひとと「同じ」ことも「違う」ことも同じ。いわゆるマイナーもメジャーもあるようでない(ないようである)。共同体に属さずに生きる人にとって、実感の希薄さをアイデンティティーに替える手だてはとっても難しい。私の場合はとりあえずもし写真と出会えてよかった。

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投稿者 Ken Kitano : 2004年01月22日 01:57