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2004年03月02日

3月2日 高野山、真言密教

 朝の新幹線で大阪へ。大阪環状線、南海を乗り継いで高野山へ。高野山は海抜900メートルを越える仏都。雪はないが冷える。宿坊で寺の上智院に荷物を置いて一休み。今回はour faceプロジェクトの取材で真言密教の修業をされている僧侶の方々の撮影とインタビューをさせて頂く。先月熊野に神倉神社で御燈祭の撮影をした帰りに高野山に立ちより取材の申し込みをしていたのだ。暗くなって6時半に高野山専修学院へ。高野山には高野山高校、高野山大学があるが、ここ専修学院は真言密教の僧侶の修業の場である。一年間俗世との連絡を断って厳しい集団生活のなかで修業をする。特に二学期は厳しい行が行われ、昨年NHKが弘法大師の番組制作で例外的に取材を許されたが通常は取材は受けないのだという。なかに入ると意外にも生徒さんたちが明るく冗談を言っていたりして驚く。今回は35人の方が撮影をOKして頂けた。感謝。撮影の場所、ポーズ、などを生徒さんと相談して決める。できる限り「修業の」肖像として撮りたかったからだ。結局広間に合掌して座ってもらうことに決まる。生徒さんは座るとサッと表情が変わる。カメラの前に座った時の表情、特に目が人により全く異なり興味深かった。
 撮影の後数人にインタビューさせて頂いた。僧侶になると決めるまでのこと、修業を始める前と後ではどう変わったかなど伺う。興味深い。何人かのひとが「一人になって個と向き合って考えるのは豊かなことで、その経験をする時間がここに来るまで持てなかった」という意味のことを言っていた。
 ある寺のひとがour faceを見て「真言密教の教えに近いのではないか」と言った。一人のひとの輪郭ではなく無数の存在が奥の奥まで続くイメージ。個と全体を同時に見てゆくような眼差しがそうだと言う。確かに私のものの見方、リアリティの感じ方は大乗仏教的な要素がある気がする。私が写真を意識して撮り始めた時に感じたことは、個人は点のような小さな存在でそれは確かさである。そう感じられた時世界の存在をリアルに感じられた。(サイト「溶游する都市」のテキスト参照)以来、ものごとを見ようとする衝動そのものが、全体の中の一部というリアリティと、世界もまた個(部分)のなかにあるというリアリティを同時にもてるような方向を目指しているようだ。これは感覚的なことでは全くない。

投稿者 Ken Kitano : 2004年03月02日 08:32