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2005年03月07日

3月6日 風の谷のナウシカ

写真集の後書きを書かないといけないのだけど、たくさんのことが浮かんできて、6年間考えてきたことや感じてきたことをどこからどうまとめてよいか・・一向に進まない。こうゆう時は気持ちや思考の流れを止めないことが一番なので、何かインプットするに限る。そこで去年買っておいた「風の谷のナウシカ」1〜7巻(徳間書店セット価格2780円は安い!)を読み始める。 (単に書くことから逃げてるかも)以前TBSラジオ「デイキャッチ」で歴代の宮崎アニメの人気投票をやったときに、宮台真司さんがナウシカは映画になっている部分は全体の中のわずか(第二巻の前半くらいまで)で、物語全体は壮大な戦記ものとして単行本を読むのを薦めていらしたので、生活クラブの共同購入に載っていたので注文しておいたのだ。
 でも僕は三国志にしても戦国時代の武勇ものにしても、長い戦記物というのが苦手。大河ドラマだってほぼ一年を通して観たのは去年の「新撰組」が初めて。(あれはよかった!)唯一、塩野七海さんのビザンチンやメディチ家などの本に一時期はまったことがあるくらい。だいたい長い物語は途中で前の方の話を忘れてしまうし、登場人物の名前が多くて覚えられないので持続できないのだ。でもナウシカは読み始めたら面白かった。まだ読んでいる途中だけど、例えばクシャナやクロトウなどの登場人物が映画よりもずっと複雑な人間性を持って描かれていて面白かった。映画を観て、なんとなく「一神教的世界観の皇帝側」と「多神教的世界観の風の谷の部族」の対抗の図式のように捉えていたのだが、実際の物語はもっと複雑だった。あまたある多神教的な世界観の部族(実にたくさんの部族が登場する)が対立と融合を繰り返すうちに、いつしか、ナウシカ自身が、救世主的だったり伝道者的てきだったり、それらの人々の中心的な存在になりつつあり、つまりナウシカ自身が一神教的な存在(もちろん超越的な存在じゃないんだけど)になりつつあるような部分があったりする(そうゆう部分はたまたま今読んでいる今福龍太さんの「クレオール主義」にラテンアメリカの混血の文化のかなに強く存在する母性のあり方と、中南米にあまたある聖母信仰〈有名なのはメキシコのグアダルーペなど〉の関係にも通じるようで面白い、ナウシカの清純な描かれ方も含めて)。人間同士、あるいは思いもよらないほど大きな自然の存在と人がせめぎ合う中で、見え隠れするはるか向こう側(というか底というか)の光と闇に息を詰めながら読んでしまう。(「千と千尋」の顔なしに通じるような、 「闇」そのものと、その出会い方も途中で登場する。そうした闇との出会い方は、村上春樹の「ねじ巻き取りのクロニクル」などに出てくる心の闇との対峙の場面も何となく連想させられるようで、そうした私たちの心の闇のあり方というのは時にこうした形で捉えられるものなのだろうか?)
 それと読んでいて思ったのは、他の宮崎映画もそうなのだが、宮崎作品のもつ「静けさ」のひとつは通信機器がないことだと思った。飛行艇などメカニカル(どこかレトロなところのある〉な部分は発達してテクノロジーの結晶体みたいなものがたくさん登場するのに、通信手段がナウシカなら通信管だったり旗だったり、照明弾だったり、それか「念」だったり。「耳をすませば」などでも電話や電報だけで、無線や携帯は登場しない。あるのは距離と移動と相手を思う気持ち。通信がないことが全体を通底する静かで、深くて、親密な関係が例え敵対する相手にも成立して、ダイナミックだけど静寂を湛えた物語を形作っているのかな、などと考えた。あと少し読み切るのがもったいなくなってきた。その前に早く書いてしまえと自分に突っ込む。
・「風の谷ナウシカ」徳間書店
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/419210010X/qid=1110162474/sr=1-1/ref=sr_1_10_1/249-7567347-2564337
・「クレオール主義」ちくま学芸文庫
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4480087575/qid=1110162570/sr=1-2/ref=sr_1_10_2/249-7567347-2564337

投稿者 Ken Kitano : 2005年03月07日 11:30