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2005年09月19日

9月19日 鶏鍋に熱燗

伊勢二日目の昼間は珍しくオフになった。内宮、外宮の祭の間の日。前から行ってみたかった映画館「新富座」へ行く。以前ラジオでおすぎさんがこの映画館のことを話しておられたのを聞いて以来気になっていたのだ。旧い映画館を個人が買い取って頑張って営業されている。映画ファンによる個人映画館というところか。伊勢は往時の活気が薄れ、駅前のデパートが閉鎖されたり、商店の郊外化が進んで中心部はがらんとしている。繁華街もシャッターを降ろしている店が目立つ。そんな中頑張っていい映画をかけ続けている映画館。気持ちのいいロビー。受付のひとは品のあるご婦人だった。きれいでゆったり座り心地のいい椅子。この日の映画は「ヒトラー最後の12日間」。秋晴れの天気とは裏腹に重たい映画だった。印象的だったのは映画にも登場するヒトラーの秘書だった女性が生きておられて、本人が映画の最後に出てきたシーン。ヒトラーは周囲の人々へは優しかったことと、戦後に初めてナチが行ったことを知って(自分がそれまで知らなかったことを知って)がく然としたことなどをカメラの前で語ったシーン。
 夜は編集Iさんと居酒屋「なぽり」へ。焼き鳥屋なのになぜか「なぽり」。メニューにパスタはない。鶏肉だけでなく、鹿、馬、猪などの肉料理も。美味しい。安い。鶏鍋と熱燗が身体に染みる。コラーゲ〜ンな夕食。Iさんと飲むのは久しぶりだったのでいろいろ話し込む。『our face』を出して会った人の言葉や反応を書き留めておいたほうがいいよとアドバイスを受ける。本を出す前後で考えたことなどをメモにしておくと後で役に立つと言われるが、考えてみるとこのブログがメモ代わりだ。

 昨夜も幅広い世代の人がいる中で自分の本の話題も出た。前にも書いたが、やはり団塊の世代の人は「個性とは幻想である」という言葉に引っ掛かるようだった。全共闘の世代といってもいいのかもしれない。その世代の人達にとって「個性」という言葉は、自分たちがようやく手に入れた貴重な考え方、個人のあり方だったのかもしれない。よくわからないけど。個性的であることがイコールいいことだという考え方を、疑わずに固執する人が多い世代であるような気がする。「個性的」であることが豊かであると。一面的に見るとその通りなのだが、日本の戦後教育あるいは社会全般にも言えると思うが、狭い一定の組織の中で作用する「個性」という基準であることが、そもそも幻想である。クラスの中の、会社の中のポジションやキャラクターの色分け、「他とは違う存在」であることなどのモデルが組織のなかで出来る。組織の中で個性的であるということと没個性的であるという構図が出きる。それを他の組織や広い社会一般に比較すると、その構図そのものが画一的で均質な社会を構築している。つまり周囲に対して「個性的」であろうとすることが、実は均質な社会を作っていく原動力なのだという矛盾に若い世代は気がついている。学校の先生が「個性を出しなさい」と言えば言う程、均質な考え方の子供たちが全国で育つのだ。こうゆうことが今の団塊の世代の人たちが作ってきた社会の一面でもある。自分と他者への比較の眼差しがものごとの評価へつながる。こうした消費資本主義へと直結した本質的な評価の言葉とは無縁の尺度が重要視される。(当たり前だけど。)でも、「違い」を感じることと「実感する」ことは本当は違うのだ。「違うもの捜し」的な表現はちっとも創造的でないし心に残らない。実際に残っていく表現はもっと別な次元から生まれることはいうまでもない。とはいえ似た様なものが同時に世に出ると価値が下がる。写真集でもこうゆうのはよくあることである。
 もうひとつ言うと人は同じテレビ番組を見るからとか、マンガを読むから社会や人が均質になるのではない。同じ「ドカベン」を読んでも100人の子供は100通りの感動を受ける。たくさんの人が同じものを受け取っても、受け止める者の内面は多様だということがある。逆に実に多様なソフトがあるいま、それを受け取る者の内面が均質になっていくという現実もある。
 もっともこんなふうに「個性」という言葉を否定的に捉える考え方自体が「個性的」と捉えられるのもまた、近代の思考では当然の帰着なんだけどね。

投稿者 Ken Kitano : 2005年09月19日 12:50