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2005年10月09日

10月8日 団塊の世代と「自分らしさ」信仰について

 朝から暗室。ご近所のお友達のOさんちに赤ちゃんが産まれたので撮影した”ご一家写真”を焼く。”幸せの一コマ”を丁寧に焼く。夕方久しぶりに家族で銭湯に行く。体が芯からほぐれます。

 送られてきた「中央公論」(グラビアにメキシコの写真とテキストが掲載されてます。11月号です)を読んでいたら三浦展さんによる〈”自分らしさ”型子育てが「自分探しフリーター」を生んだ〉という論考を寄せられていた。今月号の特集は「団塊の世代」について。団塊の世代については先日来ブログにも書いている通り、あの世代の(特にインテリの人が)持つ”個性崇拝”もしくは”自分らしさ信仰”について気になり、考えていたところだ。というのも拙書『our face』の冒頭に書いた「個性とは幻想である」というコピーに、どちらかというと拒絶的な反応をなさるのが、まさに団塊の世代だからである。僕がこんなコピーを添えたのは、この仕事のベースに「行き過ぎた個性礼賛主義」みたいなものへの違和感があったからである。詳しくは「写真の会会報」57号を読んで頂きたいが、ようするに、「個性、自分らしさ」を過度に志向する人々が増えれば増えるほど、その社会は実は均質な社会になるという一面があるということ。それは実は生きにくい社会であると思われること。例えば学校のクラスや会社で「周囲に対して特別な存在でいなければならない」という思考から色分け(キャラクター分け)された組織があちこちに偏在すると、その結果、(共通の構造が偏在して)均質な社会ができあがる。だいたいそうゆう志向からクリエイティブなものは生まれない。また、”違い捜し”、”差異=価値”は商品価値の尺度にはなるが、生きていることの実感や充実とはまるで関係がないのである。というような話を若い人としても「そうだね」となることが多いのだが(今の若い人は「そうゆう考え方って君だけじゃない。すごいね」というリアクションの前提になる「他のみんな的な視点」の共通認識をそもそも持ちあわせていない)、一方で「北野君、それは違うよ。他の誰も持っていない強い個性的なものを身に着けてだね・・・(幻想だね)」という話になるのは団塊の世代の方が多いのだ。
 でもってそれはなぜかなあと、ぼんやり考えていたら、三浦展先生が団塊の世代の生き方とフリーター人口を大量に抱える”団塊の世代ジュニア”の世襲関係についてデータを交えて書かれていた。団塊の世代は「70年代初頭に若者だった団塊の世代自身が、当時その日暮らしに強く憧れていたからと考えられる。(中略)その後彼らは長髪を切って就職し、結婚し、子供を産み、二回のオイルショックに襲われながらもローンを組んでマイホームを買い、結局その日暮らし的な生活をあきらめざるをえなかった。そこに団塊の世代の韜晦がある。」その結果として「子供たちのその日暮らし的な価値観を団塊の世代は否定しなかった。というより、おそらく放任し、助長した。」と具体的な数値データをあげて書かれておられる。読むと団塊の世代の「自分らしさ崇拝」と子供の世代の「自分らしさ志向」を関係がくっきりと見えてくる。ちなみに調査によると、団塊の世代の高階層(高所得)に自分らしさ志向、自己実現志向が非常に強いのに対して低階層(低所得)ではその志向が低い。逆に団塊ジュニアでは「個性・自分らしさ」を大事にしているひとが低階層に多いのに対して高階層では少ない。(「自己実現」を求めると高収入を得るのが難しくなる。ちなみに既婚率も収入にきれいに比例する。僕は低所得の既婚者)。最後に三浦先生は「自分らしさ」という”「青い鳥」のような観念”について、「団塊の世代より若い現在子育て中の世代は、今後おそらく、団塊の世代的な”自由な”子育てを踏襲する者と、団塊の世代を反面教師として、子供に相応の厳しさを持って接する者に二極化するのではないか」そしてますます日本社会が階層化が進むのでは、と締めくくっている。寒い話である。
 とりあえず、今月のお家賃を捻出する算段を考えよう。その前に焼酎のお湯割りでもかぼすを搾って飲もう。

投稿者 Ken Kitano : 2005年10月09日 08:26