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2007年07月27日

7月26日  沖縄

お金と仕事はぜんぜんないけど、飛行機のマイルはたくさんあるので沖縄に行って来た。東京とは暑さの質が違った。
本島の北と南を訪ねた。漠然と、いずれ撮りたいと思っているものというか、場所があって、その感触をつかむための、ロケハンといったところ。暑い中、選挙戦が盛んだった。やはり憲法を争点にしている候補者が多かった。
4×5のポラがどうしてもほしくなり、詳しい知人何人かにうっている場所がないか聞いたが、分からず、フジカラーイメージング(富士フィルムの感材を扱っている会社)の沖縄に電話したら、方々あたって調べてくれた。「那覇の森山カメラというところに一箱だけ残ってます」とのこと。もしかしたら僕が買った4×5のポラは、あの時点で沖縄県で唯一のものだったかもしれない。フジの方、どうも助かりました。
本島の南は、そこここに慰霊の場所がある。一帯が大激戦地だったから。先日東中野でみた証言集のフィルム「ひめゆり」の記憶も僕にはあたらしい。まぶにの丘の近くの人気のない断崖で一人のおじさんに会った。最初びっくりしたが、「縄文の遺跡があるんですよ」と言って発掘現場を見せてくれた。遺跡を発掘しているのかと思ったら、戦死者の集骨をされていた。よくあることらしいいが、集骨作業中にたまたま古い遺跡が出ると、届けて(県か市か?が)翌年発掘作業をするとのことだった。その辺りも既に戦後集骨作業は終っているそうだが、それは表面だけで、少し掘るとまだまだたくさん出て来るそうだ。その方の立っている足元にもそこから出た4柱の遺骨が袋に入ってい置かれていた。そうしてその方は50年もの間、一人で、膨大な数の集骨をして、毎年まぶにの丘の慰霊施設に収めているとのことだった。50年と聞いて気が遠くはならなかった。暑さ湿度とリーフに寄せる波の音と熱帯の緑が、僕の心に安易に想像が疾走するのを拒んだようで、東京に帰った今も、あの崖に「いまも、時間が流れている」ということが、率直に想像できる気がして、そのことが、僕を安らかな気持ちにさせてくれる。
今回は泡盛をあまり飲めなかった。次回はきっと、泡盛飲みくらべと行きたい。


投稿者 Ken Kitano : 08:58

2007年07月19日

7月19日  期日前投票

 明日から出張がちになる。投票日に不在になるかもしれないので期日前投票に行って来た。雨の平日だけど、続々投票に来ている人がいた。投票所の中と外で大声で「誰に入れるんだっけ?」、「ほら〜、○○さんよ」と大声でやりとりしている母娘(中年と老人)がいた。大バカ。立会人、なんか言えよ。どうなるんでしょうねえ、こんどの選挙は。
午後、家で作業していたら、娘の同級生(男の子)が遊びに来た。 娘が(ていうか、ほとんど世話してないけど)飼っているイモリを娘の夏休みの娘の留守中預かる約束をしたらしく、取りに来たとのこと。子供同士のこうゆう約束って微妙。「おうちの人と電話で話してからにしようか」と言ったら、男の子は「さびしそうな顔をして頷く」。トカゲだし、女の人はこうゆうのきらいだろう。ちゃんとお母さんに断ったのかどうか、気になる。夕方電話したら、ちゃんと合意がとれてるらしいことがわかった。明日その子のおうちに持ってゆくことになった。
 昼間のラジオの話。「やるまん」の後の大竹まこと「ゴールデンラジオ」はわりと聞ける感じになってきた。
 

投稿者 Ken Kitano : 21:46

2007年07月14日

7月13日  中洲通信

 予定より早く東京に戻ったので中洲通信の原稿書き。書く前に、例によって、請求書を書いたり、機材の整理をしたり、髪の毛を切りに行ったり。書くための追い込みの儀式のように雑用をこなしてから書き始める。今回は山谷〜三ノ輪〜浅草の街歩き的居酒屋めぐり。久々に、たぶん5.6年ぶりに山谷地区をあるいたら、高層マンションがたくさん立っていて驚いた。ドヤ街は小さくなっていた。そのへんの印象を書いていたら、例によって長いテキストになってしまった。毎回こんどこそ写真を大きくしましょう、って編集の和田さんに言われているのだけど。
 山谷のことを書いていたら、この土地が登場する好きな2冊、辺見庸のエッセイ集「独航記」(角川文庫)と佐賀純一「浅草博徒一代」(新潮社)を読みたくなって、久々に読んだら、しみじみよかった。「独航記」の中で、南千住駅とドヤ街の間にある、操車場を跨ぐ長い跨線橋の上ですれ違った、「黄色い霧を吐く男」の一編が好きだ。この章だけこれまでも何度か読み直している。跨線橋の上の「反逆する風景」から始まるこの短編に登場する人、風景、そこに身を置いた感触のようなもの。僕なりに読む度にわき上がるその質感をなぞっていると、実際に街を歩いた時の感触ともだぶるのだが、遠い物心ついた頃に、何かの拍子に感じた、自分がふと薄い灰色のモノトーンになるような、不安と安堵をない交ぜにしたような感覚を揺り起こされる。僕にとっては歩くとそうゆう街でもあったけれど、その街も徐々に姿を消して行くようだ。
 
 少し前に学芸員の方が書いた本を立て続けに2冊読んだ。松濤美術館学芸員光田由里さんの「写真、「芸術」との界面に」と川崎市民ミュージアム学芸員深川雅文さんの「光のプロジェクト・・写真モダニズムを越えて」(共に青弓社)だ。どちらも自分の体験や作品のことで思い至ることが多少あったので、思ったことを書き留めておかないと、と思いつつずるずるしている。いずれ忘れないうちにブログにでもメモしようと思う。
 前者は戦前から戦後の日本の写真史をともすると、リアリズム全盛のころ「サロンピクチャア」とひとくくりにされてしまう写真家の仕事を丹念に読み解いた本。リアリズム運動のために写真そのものが写真家以外からも盲目の雲に長く覆われた、ということを最近身を持って体験したので、そんな体験も含めて興味深く読んだ。
 深川さんの本は昨年のイギリスでの講演と関連のレジメを読ませて頂いていたのだが、その中で光のプロジェクトという言葉の意味は僕が拙速に思っていた意味を越えていた。写真はいま一定の役目を終えたメディアとして、次の役目と言うか写真の本来を振り返る時期にあると思うけれど(そうゆうことを自覚してない写真家が多いけど)、時代ごとのメディアとしての役割、写真家の仕事の質と方向の変化を読み解いて行くと、いま「グラフ(描く)」から「プロジェクト(投企)」の時代に到達しているという。そう言われて改めて振り返ると、写真史に残って、我々が感銘を受ける写真家の仕事の多くは、その時代でジャンルを作ったもの、あるいはまさにプロジェクトとしての写真の投企者たちであることに思いいたる。

 以前、森村泰昌さんが面白いことをおっしゃっていた。写真の両親は絵画で、子供が映画と。つまり「絵画ー銀塩写真ー映画」。
 一方、デジタルカメラの親は誰かというと、ビデオ。ビデオの先祖はテレビ、さらにテレビの親はラジオ、ラジオの親は蓄音機。つまり「蓄音機ーラジオーテレビービデオーデジタルカメラ」。
 「デジカメは止まっているものを動かす映画とは逆で、動画を止めたものなんです」と。さらに「デジカメとは写真のふりをしたビデオの子である」と。子は若い頃親に見た目そっくりで、自分が親になるまで子は親の苦労など考えたこともない、というのは人とメディアも同じってことか。

投稿者 Ken Kitano : 08:56

7月11日  雨に負けて

月曜から信州→愛知の知多半島へ仕事で行っていた。
信州では米農家の仲の大変良いご夫妻の手料理を頂いた。知多半島では先端の篠島、日間賀島に行った。「毎日が日曜日みたいな島です」と島の人がいうくらい、おだやかで、豊かな島だった。数日この周辺に滞在して撮影する予定だったけど、天気がこれから荒れるというので、諦めて帰って来た。
車で行ったのだけど、帰りは豊田から万博の時に開通した東海環状道路を通って中央道で帰った。岡谷でおりて、足を伸ばして姨捨の棚田をロケハンして来た。眼下に信州平野を見渡せる高台に数えきれないくらいの棚田に稲が植わっている光景は壮快だった。来年田植えが終った頃に撮影に来よう。

投稿者 Ken Kitano : 08:38

2007年07月06日

7月5日  

森山大道さん「Witness」の件でMさんから暖かいメールを頂いた。

今週は写真を貸すというのが続いた。ひとつは以前雑誌用に撮影した作家のポートレートを作家の本の単行本に使い、それを今回文庫化にあたり採録したいというもの。もうひとつ文芸誌の小説の挿絵的に写真を使わせてほしいというのもあった。こうゆう依頼はたまにあるけれど、これがなかなか簡単でない。昔の仕事の写真というのがすぐに出て来ない。一度貸し出してファイルから出したカットが別なところにあったりする。結局仕事場中あっちこっち開けて発掘して送った。

他にも写真探しをした。「クリエーターズファイル」とか「フォトグラファーズファイル」みたいないろんな人の作品とプロフィールをまとめた本に写真を貸してくれ、もしくは載せませんか、っていう類いのメールや電話や書面が時々届く。こうゆうのはどうなんだろうか、って毎回思う。まず貸す側がお金を払うような本は論外なので断っている。(それで商売として成立させているんだろうけど)。また、面識のあるひとならば安心だけど、面識のない人や会社だったりすると、迷う。あとは本のクオリティーや実際の販路だよな。こうゆう本が世にひとつで、そこに作品が載ることがひとつのステイタスみたいな感じなら(そうゆう本も海外にはあると聞く)いいのだけど、わりとあっちこっちで出ているし、そうゆうのを買う人というのがいまひとつイメージできない。CDでもアルバムは買うけど、年代別名作選みたいのは買わないでしょう?(って思ったらこのあいだ編集者のHさんが80年代ヒットポップス集サマーソング編みたいなCDを持ってきて移動の車でかけまくって、かなり脱力した。近所のホームセンターにいるみたいだった)。
出版社とやりとりしてみて先方の誠意みたのが多少見えると、写真が人の目に触れるきかっけになるならば、と思ったりもする。最近もそうゆうことがあって珍しく出してみた。「近作も数点入れてほしい」というので昨年あたりから手探りで撮っているものも改めて見返してみた。そうゆう意味ではいい機会になる。一通り見てみると、なんとなく1本スジになっているよう。でもばらばらばな部分のほうが多い。セレクトしていくうちにだんだん今のポジションみたいなものが見えて来る。でもとにかく数がない。どんどん撮らないとと改めて思う。結局プリントし直したり、略歴も更新したりと大作業になってしまった。
ま、自分の中の新しい部分はなんでも貯めずに出して外気に触れさせよう、っていうのがここのところの姿勢なので、いいか。

投稿者 Ken Kitano : 08:52

7月4日  山谷

 中洲通信のコの字取材。小雨のなか、山谷から三ノ輪を経て浅草までゆっくり歩いた。久しぶりに(たぶん5年ぶりくらい)山谷界隈に行ったけど、変わったなあ・・・。道に溢れていたおっちゃんたちが減って高層マンションが増えた。泪橋交差点近くの定食屋のおじさんに話を聞いたら、かつては毎朝この広い交差点に車が通れない程人が溢れたそうだ。そのおじさんの店もかつては一昼夜店をあけて、夜中でもさばききれない程人が入り、「いろんな人がいるから」と懐にはドスをしのばせて店を切り盛りしていたとか。おっちゃんの話す当時の光景と目の前の風景はまさに隔世の感。
 

投稿者 Ken Kitano : 08:27

2007年07月02日

7月1日  近所

天気予報がまるであてにならない。大気が安定していないのだ。昨日は梅雨の晴れ間との予報だったので久々に満月の撮影ができるかと思っていたら、夕方は厚い雲に覆われた。仕方なく出かけないで暗室に入って最近撮った写真を焼いた。3カットとも NG。長時間露光なのだけど、一枚は光が読めてない。シャッター開ける時点では未来の光はわからないのだから難しい。それとブレ、とハレーション。どこから光が射すか分からないのにハレ切りをするのはこれも難しい。対策を要検討。本来のコンセプトからは不本意だけど、最初は被写体や場所の強度に寄りかかった決め決めの写真でやるより仕方なさそう。出かけなかったので見に行こうと思っていた昨日までのPGI石元展は見られなかった。

今日も撮影に行く予定でいたが曇天なのでやめる。こうゆう時期はじっとたえるしかない。自転車で図書館へ行く。アサヒカメラの竹内万里子さんとホンマタカシさんの連載対談を読む。この連載は毎回楽しみにしている。というかここしか読んでない。ホンマさんの「リサーチと表現」という言葉に深く納得。美術手帳の写真家になるには特集みたいな特集もついでに読む。今イケてる若手の写真家のインタビューがいろいろ出ているけど、聞き手が消化不良なのかインタビューがどれも物足りない。野口里佳さんは言っていることとやっていることがクリアでかっこいいと思った。イマイチな特集の極めつけは「プリントを見せる」章でフォトギャラリーインターナショナルをくどいくらいフォトグラファーズインターナショナルと書いてた。美術雑誌としてダメすぎる。
自転車でムサビの図書館でやっている絵本原画展へいった。予想より充実した展示で面白かった。大竹伸朗「ジャリおじさん」、和歌山静子「ひまわり」、長谷川集平「ホームランを打ったことのない君に」なんかが印象に残った。続いて駅前の松明堂ギャラリーで関野吉晴+鬼海弘雄展を見る。不思議な取り合わせでどうしてこうゆう企画を立てたのか知りたいと思ったけど書いていなかった。関野さんのアンデスの写真と鬼海さんの静謐な東京の写真(彫刻みたいなプリントだ)はなんだかあっていた。どちらも目の前の現実を地べたを歩きながら見て撮る人ということなんだろうか。来ている人はいかにも「関野ファン」というひとばっかりだったので、なんとなく気持ち的に鬼海さんを応援したくなった。家に帰ると娘の友達の男の子たちが4.5人遊びにきてわーわー遊んでいて家の中が爆発したみたいにぐしゃぐしゃだった。子供たちが公園行ったら静かになった。鶴瓶のラジオに斉藤和義が出ていた。いい曲だなあ。娘が帰ってきて「自転車追いかけて走るの速くなった」って言うなら、早く自転車乗れるようになろうよ。

投稿者 Ken Kitano : 03:30