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2008年10月16日

「あやめ 鰈 ひかがみ」松浦寿輝著(講談社文庫)カバー

ブックカバーに「溶游する都市」の写真が使われました。
「あやめ 鰈 ひかがみ」松浦寿輝著(講談社文庫)
AD 鈴木一誌さん
「あやめ 鰈 ひかがみ」
http://www.amazon.co.jp/あやめ-鰈-ひかがみ-講談社文庫-53-2/dp/4062761815/ref=sr_1_2?ie=UTF8&s=books&qid=1223873353&sr=8-

投稿者 Ken Kitano : 17:43

2008年10月13日

テキスト「非常階段東京」、「受けとめようとする人」

少し前になるけど他の人の写真について2つテキストを書いた。
ひとつは月刊「中洲通信」10月号に佐藤信太郎の「非常階段東京」(青幻舎)についてのレビューだ。言い訳するとインドから帰った直後で、写真につて考える頭ではなくて今読むとひどいのだけど、「俯瞰という視座について」と「足元の世界と彼方とを並列に見渡す視座」について、自論をまとめておきたかったので書かせてもらった。普段自分の写真について言っていることをだいぶかぶせた感じですが。
もうひとつは9月にひらいた落合由利子さんの写真展(小平市中央公民館、小平映画を見る会主催)のプレスリリースのために書いたテキスト。お陰様で写真展は盛況(成功)でした。落合さんには僕からお願いして、不連続だった時間を連続に見渡す作業をしてもらった。これからやろうとすることについて考えるのでも、”今まで”を更新する作業には変わりないわけだから、そうした作業を経て、これから落合さんの写真がまた始まると、僕としては嬉しいし楽しみだ。

    ☆      ☆       ☆

月刊中洲通信 2008.10月号
「非常階段東京  TOKYO TWILOGHT ZONE」佐藤信太郎 


かつて都市のストリートを見つめることが世界を見ることだった時代があった。ほんの少し前までのことなのに、不思議と遥か昔のことのような気がしてしまう。写真集「非常階段東京」を見ていたらそんな感慨に行き着いた。


「非常階段東京」はビルの10階前後の非常階段から見渡した黄昏時の東京の風景写真。ごく自然に撮られたようにも見えるかもしれないが、よく見ると場所や高さ、大気の状態、時間帯、アングルなど作家がたどり着いたいくつものルール(コンセプト)を通過して初めて見えてくる世界だ。それはまるで天井から糸を下ろし、何本もの針穴に同時に糸を通すような困難で狭い経路を通過してようやく立ち現れるイメージ群なのだ。そこには、すぐ近くのものと遠いもの、プライベートとパブリック、ささやかな生活空間と地平線まで覆い尽くす巨大な都市の姿、均質さと猥雑さ、等々、いくつもの異なる極と極が同居し、本来同時に見えないものが等価に見渡せる。極めて複雑で困難な眼差しを持つことに、とてもシンプルな方法で成功していることが、何より痛快で壮快だ。


大型カメラで細密に写し込まれた都市の風景は、いつか見たような懐かしさと初めて未来と出会う緊張感が同居して独特の猥雑さをたたえている。トワイライトゾーンというサブタイトルの通り、自然光と夜の街の人工光が等価になる昼と夜の狭間の黄昏時に撮影されている。それも多くが空気の澄み切った冬の晴天を選んで撮影されている。露光時間が長いために人影や車など動くものは光の軌跡として微かな気配を残すか跡形もなく消えている。ほとんど無人の風景なのに不思議な親しみを感じてしまう。10階前後という高すぎず低くもない独特の高さからの視線は、ベランダの洗濯物やキッチンの灯や繁華街の裏通りの街灯といったすぐ足元の世界と地平線まで伸びる高速道路や関東平野の先の山々や富士山までを同じフレームに細密に写し込む。非常階段というのは大方ビルの横か裏手につけられている。面白いのはそこからの眺めは駅や大通りにむけて作られた、見られることを前提にした表向きのファザートとは異なることだ。それはどこか芝居の書き割りじみた作りごとの世界の様であり、仮面ごしにみる都市の姿はエロチックで新鮮なリアリティーがある。


60年代から80年代までだろうか、ストリートスナップやトポロジー的手法(抽象化あるいは類型化した視点で都市を撮影する表現手法)から都市を路上から見つめる多くの表現が生まれた。今でも世界中の都市の路上で写真が撮られ、その中から優れた写真表現から生まれ続けてはいる。けれど都市の路上を撮ることが、輝くようなリアリティーを持っていた時代はもう過去のことだ。都市から闇が消え、外部と内部が遮断された高層建築が建ち並ぶ景観に生まれ変わっていった。やがて本当はあるはずの営みさえも隠されたり、はじめから“なかったこと”として視界から消されていく。こうなると想像力との追いかけっこになる。だが最初から見えないものに向かってイメージを立ち上げるのは容易ではない。さらに肖像権という滑稽なくらいヒステリックな主張が大手を振るようになった。街中を撮影したイメージが流通することをメディアの側から止めてしまった。こうなると違いや強弱でしか世界を見られない時代になって、世界はますます細分化されカテゴライズされ、そして均質になってゆく。あたかも世界には巨大な中心があって、僕たちは常にそれを意識して、そこから測る距離にのみ価値を置くような幻想に加担している気がしてならない。そんなことは嘘なのに。こんな風に書くとたちまち世界は輝きを失ったつまらない光景に思えてしまうが、実際写真家や映像作家は常に見えなくなって行く世界と格闘している。

路上を見ることに代わって90年代から主流になってきた写真表現のひとつが俯瞰だ。俯瞰そのものは新しい眼差しではない。サン・テグジュペリは飛行機操縦師の視座から「星の王子様」や「人間の土地」を書いた。(そして自身も飛行機事故で帰らぬ人となる)。実写では不可能だったこの眼差しに僕たちは宮崎駿アニメをはじめとするアニメの世界で親しんできた。そうした素地があったからかどうか知らないが、空撮やビルの上から撮影したある種の匿名性を孕んだランドスケープ写真の系譜が90年代以降出来上がってきた。さらに最近ではGoogle Earthのような衛星写真的な視座も一般化した。しかしGoogle Earthの映像はやはり世界をどこまでも細分化してゆく視座である。同じ俯瞰でもすぐ足元と彼方を同時に見つめて行くような非常階段の視座は、あるところで世界を差異化と序列化することを拒否して、どこまでも異質なものと矛盾を内在しながらなお強度を持って輝く希有な視座だと思う。

写真を見ながら「いますべてがここにある」という安堵とともに世界と対峙する喜びと、俯瞰という眼差しがもつ根源的な孤独が同居するのを覚える。そしていつの間にか自分自身もまた「この世界のなかに確かにいる」というかけがえのない実感にたどり着いていることに気づく。        (北野謙 写真家)

佐藤信太郎HP
http://shinsato.cool.ne.jp//
写真集「非常階段東京」
http://www.seigensha.com///
中洲通信HP
http://shinsato.cool.ne.jp//
ちなみに「中洲通信」では私の居酒屋コラム「気がつけば僕はいつもコの字」も連載中。

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写真展開催によせてのプレスリリーステキスト

〈受けとめようとする〉人 ------- 写真家・落合由利子さんについて 

 落合さんと出会ったのは1990年頃だったと思う。その時落合さんの仕事部屋の壁に「話したい」という落合さんの写真へまっすぐにつながる言葉が貼られていたのを思い出す。その頃落合さんは最初の東欧撮影から帰ってきた時期だった。ベルリンの壁が壊れ、東西冷戦の終焉と共に世界の地図が変わり始めていた頃だ。歴史の変わり目を生きる人々に会い、落合さん自身、時に立ち止まり、揺れながら、全身で、まるで自分のことのように受けとめようとしていたように思う。そしてそこから生まれる写真は素敵だった。優れた写真家は、目の前の現実を正しく越えて行くことの為のみに写真を撮り、そして思考する。そう、テーマで撮る写真はつまらない。そして残らない。その後落合さんの人生そのものも、彼の地から大きく変わることになる。早くあの時の写真の続きを見たいと思いつつも、僕には話の接点もかける言葉も見つからない時期が続いた。
そんなある日落合さんが一冊の本が出した。働きながら子育てをする様々なお母さんやお父さんに一日に同行取材し、写真とインタビューでまとめた本「働くこと育てること」(草土文化 2001年)だ。当たり前だけど私たちの日常は、たくさんの喜怒哀楽を含んだ出来事と、そして矛盾に満ちている。読んでいると、本当に様々な生き方と現実との向き合い方があることを知る。そのことに率直に驚き、励まされた。人が普通に一日一日を生きている姿を見ることでとこちらが元気になる。久しぶりに見た落合さんのこの仕事は輝きに満ちていた。
落合さんの写真の魅力は、一貫してそこにあるものに対しての眼差しのしなやかさにあると思う。上からでも下からでもない目線。相手を正面から見据えたら、見たつもりがそこに自分も写り込むというパラドクスを写真は持っている。落合さんの写真の持つ輝きを安易に生きている者への敬意と言えば平板だけど、今を生きている自分をも相対化しながら世界を見るのは容易ではない。人と人が共に生きるという、そもそもの矛盾を抱えながら、日々生まれる写真に光沢が宿っている奇跡。
優れた写真は作家を越えて人と人、文化と文化をつなぐ装置になる。入り口はどこにでもある。日常のすぐそこにも。世界の深淵に入って行く機会と勇気を持ち、戻って来られる人のことを表現者と呼のだろう。
落合さんは最近「写真家として仕事がしたいな」と愚痴のようなことを言う。それは文章抜きの写真の仕事のことなのか、例えば写真集を出すというようなことなのか。もしも写真でしかできないこと、写真とは何かということだったら話はだいぶ長くなる。しかし、ルーマニア、働くこと育てること、絹ばあちゃんと90年の旅、東京の日々の写真、これら落合さんの生きて来た時間から生まれて来たこれらの写真は、そのテーマや背景を離れて、見る人を写し出す鏡になるだろう。今回そうした写真の展示を見るのが楽しみだ。そしてやはり、いろいろな話を落合さんから聞きたいと思う。あの日のベルリンの空のこと、ルーマニアの土の匂いのこと、子育てのこと、絹さんから聞いた満州のこと、そして今のことを。
                  (2008 写真家 北野謙)
小平映画を見る会HP
http://www.kodaira-net.jp/units/36239/kodairamovie2007/
「働くこと 育てること」
http://www.amazon.co.jp/働くこと育てること-落合-由利子/dp/4794508271/ref=sr_1_1?ie=UTF8&s=books&qid=1221012578&sr=8-1<
「絹ばあちゃんと90年の旅」
href="hhttp://www.amazon.co.jp/絹ばあちゃんと90年の旅―幻の旧満州に生きて-落合-由利子/dp/406213019X/ref=sr_1_3?ie=UTF8&s=books&qid=1221012578&sr=8-3" target="blank">http://www.amazon.co.jp/絹ばあちゃんと90年の旅―幻の旧満州に生きて-落合-由利子/dp/406213019X/ref=sr_1_3?ie=UTF8&s=books&qid=1221012578&sr=8-3


投稿者 Ken Kitano : 16:35

10月11日 瀬戸内 〈特別な場所〉

今週は大阪と瀬戸内に行っていた。今回、岡山でボランティアをなさっている知人のHさんに同行させて頂いて、長島愛生園を訪ねた。長島にはハンセン病の国立療養所施設長島愛生園があり、その中の歴史館などいくつか施設を見学させて頂いた。実は行くと決めてから日が近づくにつれて、今までに感じたことのない、重さというか揺れのようなものを感じていた。僕などが行っていいのだろうか、どんな場所なのか、自分はどんな気持ちで、表情で歩けばいいのか、とにかく知らないことへの恥ずかしさ等々、いろいろなことが押し寄せた。僕の中のこの揺れは、現実に触れることで一時収まる。行き届いた園内を歩いたり、道で入所者と挨拶したり、歴史館で資料を見たり。瀬戸内海の明るい光と穏やかな静寂があった。うまく言うことは難しいのだが、やはりとても重い場所だった。時々バランスを崩して倒れそうになる感覚に教われた。それはこの場所が戦前、戦中、戦後が連続した地続きの時間を持ち、その歴史やハンセン病の長く誤った法律や偏見(自分も含め)の有り様、その残虐さにほんの少し触れたからだろうか。というよりはたぶん自分の日常を取り囲んできた現実との隔たりの大きさに思わず立っていられなくなるような感覚を覚えたのだと思う。

難しいけれど、僕はこれから時間をかけて、これからわずかでもそれを埋めたいと思う。資料館の資料も見終っていないので、機会を作ってまたお邪魔させて頂きたいと思っている。

この地上にはやはり厳然と「特別な場所」がある。僕は何とかしてそうした場所とそうでない場所を、同じ地平に見る視座を持ちたいと思っている。(このことは簡単には言えないのだけど、)そのことのためにしなければならないことの大きさを思うと、人生は短いなと思う。

対岸の小豆島ではちょうどこの日(10月の第二日曜)は農村歌舞伎が上演されているはずである。

(愛生園には見学施設がいくつかあり、時前にお願いすれば見学させてもらえる。入所者の方々のインタビュー映像を見られるブースもある。僕はこのブースで間接的にでも話を聞けてよかった。人間の尊厳とはこうゆうことかと感じる大きな言葉にいくつも出会った。東京の清瀬の国立ハンセン病資料館にも同様のブースがある。どちらもHPがある。)

投稿者 Ken Kitano : 16:30

10月8日 one day淀屋橋撮影

8日大阪淀屋橋でone dayの撮影。このシリーズは大阪で何度か撮っているが、大阪は東京よりも撮りやすい。街中で一日大型カメラを立てていさせてくれる余裕が、街にも人にもある。「ビック一イッシュー」を売るおじさんの少し離れた橋の上に終日いる。時々道を聞かれる。何度かロケハンしているが、ここは西にある大阪国際美術館の方向に太陽が沈むので、落日の軌跡の角度を予測してフレーミングする。毎度ながら太陽のフレーミングは地図や磁石があっても難しい。
撮影中、そのロケハンは、亡くなった内野雅文君と歩いてギャラリー回りをした時だったこと思い出した。大股で歩きながらシャッターを切る作務衣姿が懐かしい。時々、こんな風に場所が亡くなった人を思い起こさせる。風景を撮っていると、不意に近くにあった死に気づかされる。岡山で瀬戸大橋を見下ろす丘の公園で撮影していたとき、清掃をしているおじいさんと何となく立ち話になった。おじさんは管理人かと思ったら地主さんで、50年かけて橋が架かるのを少年の頃から見てきたそうだ。橋がかかるきっかけになった紫雲丸事故の話や戦争中の話。戦争末期、瀬戸内の軍港から戦地に出てゆく軍艦をこの丘から何度も見送ったそうである。印象的だったのは、ある時一艘の駆逐艦が眼下の海峡を通ったときに停まり、近くの漁船を呼んだそうだ。対岸の金比羅さん(船の神様)へ「自分たちは戻ってこないかもしれないから」と、お札を託したそうである。「あの兵隊さんたちはそのあとどうなったかね」と。そうゆうことはよくあったのかもしれない。沖縄のマブニの丘で、黙々とひとりで斜面を掘って集骨する老人と会った。「表面は戦後掃除したけど掘ればでる」と言っていた。おじいさんの足元にはビニール袋に入った5柱の骨があった。東京のある運河沿いで撮影していたとき、背後に急に人だかりが出来たと思ったら、川に土佐衛門があがったことがあったことがあった。どの場所にも死の面影がある。onedayのシリーズを始めて、時間と向き合うこと、風景と向き合うことはすぐに死と向き合うことと直結するのだな、と感じた。どんな現実も表面を一枚めくればそこには累々たる死がある。まあ、我々はみな死に向かっているし、過去の人はみんな死んでいるのだから当たり前といえば当たり前なのだが。しかし、そう感じると、このノッペリした目の前の世界が、少しだけ起伏をもって見えてくるような気がする。

日射しとオシッコを我慢しながら日没まで粘った。太陽の沈んだ角度は残念ながら思っていたより南だった。早いうちに高いビルにかくれてしまった。残念である。
大阪では来年個展をするつもりだ。

投稿者 Ken Kitano : 16:09

10月7日  大阪へ

7日車で大阪へ。午後ギャラリーMEMでパリフォト行きのプリントを渡し、ディレクターの石田さんと打ち合わせ。石田さんから、いつかどこかの美術系の大学とコラボでourfaceの等身大アナログプリントを作りませんか、という提案。石田さんからは時々思いもよらない提案を受けるので楽しい。美術市場の話では金融危機がヨーロッパに広がっているからアート市場もダメージを受けるだろう。正直バブルがパリフォトの後にはじけてくれればよかったのに、と思う。まだ分からないけど、今年はパリに行こうかと思っている。お金がないのだが、途中寄り道してタイあたりでour face project ASIAの撮影をすることにすればいいじゃないかと、自分を納得させようとしている。というわけで今タイ関係の本を読んでいるが、ゲッツ板谷さんと鴨志田譲さんの「タイ怪人紀行」が面白くて一気に読む。撮影の参考にはならないけどなんか行きたくなった。

ラジオのニュースで緒方拳さんの訃報を聞いた。昨年、一昨年と緒形さんの一人芝居の「白野」のパンフレット写真を担当させて頂いた。ショックだった。ライターの袴田さんと電話で話す。何だか志ん朝さんの時のような気分。もっと見たかった。

投稿者 Ken Kitano : 15:50