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2010年04月30日

4月30日 ソウルフォト

28日からソウルフォトに来ています。「アジアのパリフォト?」になるのか、というような期待と前評判もあり、北京へ行く途中に28日からソウル入りしました。いかんせんマンパワーが足りないのか、予定変更や滞りがいくつか発生。肝心の客足はというと、初日だけですが、いまひとつ。オープニングはVIPや韓国女優もきて華やかな・・・という期待ははずれました。週末に期待です。初日のよるは本尾さん、町口さんご兄弟とスタッフの方、画廊の石田さんとプルコギブラザーズ。

ここまで書いて2日目に行って来ました。今日は人もふえて、少しですが問い合わせもあったみたい。普通フェアは初日にいいものをめがけてコレクターが集中するのだけど、こちらは土日にかけてだんだん盛り上がるとか。NYや北京に支店をだし、美術館並みの規模の画廊が活発にマーケットを作っているコリアンアートのお膝元だけに、コレクターの活気に期待しましょう。

一つ気になるのは韓国の人はみなカメラを持っていて、作品を見てというか、見る前にまずデジカメで撮るんです。断りもなく。これが僕はいや。写真との対話がほとんどないまま、コピーすることで「見たこと」になってしまうアートとの関係ってどうなの。韓国のアートは写真に限らず物質的で表層的、表面的なところに活発さがあるのが特徴だと思うけれど、イメージとの対話や言葉を生み出すこと、がなければ、買う、というとこまで行き着かないよね。日本も多少そうゆうところがあるけれど、ヨーロッパのひととは違うと感じる。どうなんだろう。単なる印象だけどね。
そうそう、中国の人がもう少し来ているかと思った。

今日は佐藤信太郎さんご一家とサムゲタンを食べました。おしかった。
明日北京に移動します。明日から3ヶ月、北京三影堂芸術中心でのアーチストインレジデンスが始まります。助成金も頂いたプロジェクトなので、ぜひ成果を出したい。

投稿者 Ken Kitano : 08:48

2010年04月20日

(16日の続きで、本の話をもうひとつ。)

16日夜は青山ブックセンター六本木店で町口覚さん×本尾久子さん×北野でトークイベントをしました。冷たい雨に関わらず、予約して来てくださった方も10数名いたそうだ。アサヒカメラの町口さんの鼎談や東京フェアを見て来てくださった方もいらしたようだ。立って聞いて下さった方、終了後写真集を買ってくださった方もいてありがたいです。おかげさまで写真集「FLOW AND FUSION」は好調です。プリントつきはあと少しで完売。レギュラーはもうすぐ残り半分というところ。かなりハイースです。たった500冊しかない本です。来月にはNYフォトフェス、ソウル、香港でも紹介されます。

トークは、週末だしみんなでワインでものみながら話せたらいいのに、という本尾さんの意見に同感しつつ、今回はコーヒーを飲みながらゆるゆる話す。

東京アートフェアもあったのでマーケットの話。僕の口癖だけど、アートはあらゆる人をつなぐイメージの回路。(あらゆるひとは対岸の他者だけでなく、過去や未来の人もその対象なのはゆうまでもない。)僕は作品そのものもそうだしプロジェクトとしての展開自体にそうした回路作りを意識的に持とうそしている。現在はそうした他者をつなぐ回路作りも作家の重要な仕事だ。町口さんもそのような回路の重要を感じてさまざまなチャレンジをしていらっしゃる。その回路作りにはもちろんマーケットにかかわることも含まれる。むしろマーケットの魔力に、他者とのイメージの回路の重要性が隠れて見えない気もする。パリフォトの話を皮切りに、自分たちのローカルと、海外の様々なローカルとを結ぶ回路を作る仕事について、僕と町口さんがそれぞれの立場で話す。

マーケットの話をしようとすると、単に海の外は文化があるからいいとか、金持ちがいてアートにお金をだすからいい、という話になりがちで難しい。それもあるけど、それよりも個人がアートと出会うことを個人の中で(そのひとのオリジナルの)経験として持つひとが多い、ということの延長にコレクションや文化や批評がある、ということを話したつもりだけど、どうだっただろう。

ところで最近こうしたトークイベント、あるいはインタビューで話して、強く感じるのは発した言葉を本にすべきじゃないかということ。例えば先日80代の批評家の福島辰夫さんとお話してみて気がついたことがたくさんある。今回みたいに町口さんとマーケットに出て見えたことのを話す中にも大事なことがある。マーケットに関わることの中にもイメージの回路として重要なことがあるからだ。(ハウツーや単に都合のいいことだけを話して商品価値をあおるような言説ではなくて。)そうした言葉を片端から本にしたほうがいいんじゃないか、という気持ちが起きている。

端的に言うとそれは、
ーいま私たちが作り出しているイメージの先に歴史はあるのかー
ということについて。
あまりにも本質的なことだけど、このような危機感に向かっていろいろな人があらゆる方面から考えて、いま言葉にしないとまずいんじゃないか、ということ。

北京からから帰ったら、やりたい、けどできるかな。
さしあたり、比較的若い40歳前後の書き手、作家、デザイン、画廊などさまざまなジャンルのデイレクターが書いてまずは10冊くらい。
〈イメージの先に歴史はあるのか〉新書、じゃ長いから〈イメージの行方、新書〉とか。
新書版で1冊500~700円くらい。500部。最初に10タイトル出した後、毎月1冊くらいのペース。スピードと経費のために書き下ろしだけでなく語り下ろしや対談をしっかり編集して本にする。対談は近い立場や年代同士ではなく、福島先生と私のように40歳離れた作家と批評家みたいに、離れた言説やローカル同士を結ぶものがいい。10歳くらい違う人と話していてもめてこないけど、40歳違うと距離の中にいろいろ本質的なことが見えてくる。出ている本は〈小さい地図〉が多い。もっと遠いよその地図と繋がる本でないといけない。でないと写真を越えて写真の外へ、また写真の外から写真を見る視座が持てない。持ちたい。
重要なテーマは海外に持ち込んで別な人と話してまた本にする。簡略なパッケージなので普遍的なテーマは翻訳して韓国や台湾、中国でも出す。そうゆうレーベル・・・・ってタイヘンだけど、北京から帰ったら、考えよう。

でも、僕がやる仕事じゃないかな。

ものが動かない時代。作品はともかく本すら動かない時代。もっとも基本的でお金もかからない、話す、聞く、ことが考、えること、行動すること、につながるのではないか。
まずは北京でのシンポジウムをきっちりやって、考えたい。

投稿者 Ken Kitano : 11:13

16日  言葉の島  (親ばかばなし)

午後、批評家福島辰夫先生のお宅へ。先生は60年間の美術と写真の批評生活のなかで、残念にもまだご著書として1冊もそれらがまとまっていない。いま最初の批評集を出版する動きがある。昨今の出版不況、そして膨大なテキスト群からどのように選ぶかなどなど、1冊の本にまとめるのは容易ではない。先生のご意向と出版社の考え・・。及ばずながら僕はその調整をかってでている。いま、本が世に出るかの瀬戸際。半ば難しい、とあきらめる気持ちもあったのだが、今日の打ち合わせで実現の兆しが見えて来た。

 僕は先生に、どうしても出版して頂きたい。どのような形でも、テキストが世にでることは、大変に嬉しい。一遍のテキストでも本として存在するのと、存在しないのでは大違いだ。1冊の本が世界に存在することは光だ。きっと1冊のその先もあるはず。いま、写真には批評が必用です。本当にそう思う。(どうしてそう思うか、また福島先生の仕事については少し前のブログに書いた。)

 余談だけど昨日小学生の私の娘が絵と文章を書いていた。何を書いているのか聞くと、「言葉の島」だと言った。どこかに言葉の島があるのだそうだ。そこはとても穏やかな世界で、あらゆるものがあるらしい。何しろ言葉の島だから。そこには池があってそこから言葉と光が溢れているらしいのだ。それに比べて僕たちの世界は闇のようだ。だけど幸いにもこの世界にも言葉とイメージがある。この世に本があるのとないのとでは、大違いだ。いま1冊の光が生まれようとしている。

投稿者 Ken Kitano : 07:40