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2005年08月03日

8月3日 休肝日

 録音した伊集院光の「日曜日の秘密基地」と「深夜のばか力」を車の中で聞きながら上野へ。途中、現像屋に寄り、水道橋の「いもや」で豚カツ。上野の囲碁サロンで撮影。広〜いサロンがびっくりするくらい混んでいた。昼間から囲碁に興じる大人がこんなにいるとは。昭和の空気を一杯に吸いつつ撮影する。
 夕方銀座のギャラリーアートグラフ坪島遊展「ヒロシマの叫び」へ行く。坪島さんは面識がないが広島のYさんから手紙とdm を頂いた。原爆ドームを撮り続けた作品だった。こうゆうのはいろいろな意味で難しいなと思った。西洋やラテンアメリカの様に日本はモニュメントを好む文化ではない。その中で原爆ドームというモニュメントは様々にビジュアルが流布し、記号化し、実際に見たことがない人でも体験的に「見て」いる。だから、そうしてバーチャルにでも見れば見るほど、個々の体験として、無化してゆくし、薄れていくという一般的なモニュメントとしての矛盾を抱えている。(反対に将来的に取り壊されることが自明となったことから東京タワーなどは、小説のタイトルになったり最近ビジュアルとしても様々に取り上げられてきているのは、考えてみると対照的だ。消滅することがモニュメントとしての自己主張をしている事実。)だから坪島さんの写真がというのではないが、撮れば撮るほど、見れば見るほど無化してゆく存在のイメージというのは、実に矛盾を抱え、難しいのだと思う。声高に「叫ぶ」ほど届かなくなる。
 面白かったのは、坪島さんがドームのことを「彼が」と具体的に三人称として語っていたこと。ちなみにタイトルの「叫び」といいうのもドーム(彼)の「おれはもう疲れた。いい加減に終わりにしないか」という叫びだそうだ。写真的には、ご本人のこれを撮ることの前後だとか、「写真の写真以外の部分」があまり感じられなかった気がする。ただ擬人化するということも含め、モニュメントや出来事を「彼」や「彼女」と見てゆくというのは新鮮で、何か可能性があるのかなと感じた。
 ヒロシマの事に限らず、出来事や体験の「当事者加減」みたいなことをどうしても最近考えてしまう。単にリアルということとにも繋がるけれど、出来事や作品や「自分のこととして感」について。反対から、「無関係性」、「自分のこととして」とらえられないか、の方向から考えたほうが近道?「実感の希薄さ」側からアイデンティティーを探ってゆくようなこと。みんながあるという前提から提出できることって、とても少ないから。迂闊に「共感」なんて言葉は使えない。「希薄さ」、実感のなさ、「不確かさの質」みたいなものを見つめることで、越えたいと、相変わらず個人てきには思う。
 書き始めたら思いがけず、長くなってしまった。
 帰って娘と盆踊りに行く予定だったが、納品して帰ったら遅くなった。おいなりさんとサラダを食べてお風呂に入る。今日は休肝日。

投稿者 Ken Kitano : 2005年08月03日 11:16